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小笠原 父島

東京からはるか南へ、約1000キロ。
そこは、太平洋の大海原に囲まれた亜熱帯の楽園、小笠原。ホエールウォッチングや多彩な海のアクティビティで、にっぽん丸のクルーズのなかでも、特に人気を博している小笠原へのクルーズ。
今回は、その大自然の魅力と、島に生きる人々を訪ねた。
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小笠原 父島

父島中央部の標高319mの峰、中央山からは360度のパノラマが広がる。写真は兄島(北)方面の眺望。左手の岩が烏帽子岩。

美しい紺碧の湾の二見港停泊中の船が小笠原への唯一の足の「小笠原丸」。
中心街背後の山にある大神山公園展望台。
小笠原諸島は、東京から南へ約1,000キロ。大海原が続くだけにその距離感がいま一つ掴みにくいが、東京を起点にすると種子島・屋久島辺りに相当する。

にっぽん丸などのレジャークルーズとは別に、島を訪れる唯一の足は、船の定期便のみ。1週間ごとに父島と東京の竹芝桟橋とを行き来している。面白いのは島内の商店などの休業日。多くの店舗が定期船の出航日の前日、もしくは入港日の前日となっている。それほどに島の生活は船を中心に廻っているようだ。

人口は父島が1,908名(平成17年3月1日現在)、母島はわずか442名。島の人の話によれば、その人口の3分の1が公務員で、3分の1が建築土木関係者という。

ちなみに周囲の島々は、父・母島を中心に、兄島に弟島、姉島に妹島、聟(むこ)島に嫁島、果ては姪島や孫島など、血縁の名称が付けられているのが微笑ましい。

小笠原の歴史は、先史時代に先住民が居住していたと思われるが、文明史上では長い間無人島の時代が続いた。

1593年に小笠原貞頼によって発見されたと伝えられ、人が定住したのは江戸時代の後期。それは欧米人やハワイの先住民だった。しかしその後、江戸幕府や明治政府の調査・開拓によって、1876年(明治9)には国際的に日本の領土として認められている。

小笠原が最盛期であったのが、大正から昭和初期。捕鯨を中心とした漁業により、人口も約7,000人を数えた。


島の西側の海を望む三日月山展望台。夕陽の名所として知られるが、ホエールウォッチングにも最適だ。 三日月山展望台眼下の断崖。太平洋の荒波が打ち寄せる。 境浦。湾内には戦時中に魚雷攻撃を受けここで座礁した濱江丸の無惨な残骸が。
扇浦。中央の岩が扇の要に例えられた要岩。左手には海水浴に適した砂浜が広がる。 左手の兄島と兄島瀬戸を望む長崎展望台。右手の岩が長崎。

そして太平洋戦争。豊かな楽園にも危機が迫り、1944年(昭和19)には軍属を除く全島民が内地へ強制疎開させられた。

敗戦後は米軍の占領下として統治され、1946年(昭和21)には欧米系の島民に限り帰島が許されたが、日本人の帰島が実現したのは、それからさらに22年後の返還まで待たなければならなかった。

しかしその歴史の記憶も遠くなりつつある。

左写真は初音浦展望台からの眺望。アメリカのブッシュ元大統領がこの辺りで撃墜されたとのエピソードも。右写真は美しい白浜の小さな入り江、コペペ海岸。ギルバート諸島出身の先住民「コペペ」が名前の由来。上写真は中央山山頂。戦時中に設けられたレーダーの台座の赤錆た姿が残る。
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