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パラオ・コロール

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パラオ・コロール

コロール島とアラカベサン島を結ぶ「ニッポンバシ」。
日本のODAによって建造された「ミナトバシ」がバベルダオブ島とコロール島とを結ぶ。

大統領府を出てアラカベサン島からコロール島に架かる通称「にっぽんばし」を渡ると、パラオ唯一の繁華街に入る。町らしい町と呼べるのは、このメインストリート沿いの一角だけだ。

道路の両側には、国会議事堂や共和国事務所、警察署に消防署、そして銀行や航空会社のオフィス、ショッピングセンターや飲食店、スポーツ施設やミュージアム、学校などが建ち並ぶ。といっても高層のビルなど一つもない、空が大きいのどかな光景が広がっている。

「シニア・シチズン・センター」はこの西の外れにあった。ここは政府が運営する高齢者のための施設。訪ねるとご老人方が思い思いの時間を過ごしていた。

ダンスを踊るグループ。タコの木(パンダナス)を材料にひたすらカゴを編むご婦人。片隅のテーブルではカードゲームに興じている人々がいる。近くに寄ってみて驚いた。それはトランプではなく、紛れもない日本の「花札」だった。

シニア・シチズン・センターで花札、ダンスに興じるお年寄りたち。 丹念に作られた民芸品は、隣接のショップで販売されている。素晴らしいアイデアだ。

パラオが歴史(西洋史)に登場するのは16世紀のこと。しかしヨーロッパとの交易による交流が盛んになるのは18世紀以降になる。その後19世紀後半に15年間ほどスペインの植民地となるが、1899年にはドイツに売却されてしまう。そして第一次世界大戦終了後1914年に国際連盟によって日本の委任統治領となった。

以降34年間、南洋諸島全体の南洋本庁がパラオに置かれるなど、この国と日本との関係は深くなる。太平洋戦争前の一時期のコロール市には、パラオ人1,287名に対して、なんと13,700人もの日本人が居住していたという記録が残されている。

当然ことながら、その名残がいまも言葉に見られる。「シャシン」「ベントー」「ダイジョーブ」など、そのままパラオ語になった日本語も少なくない。また年配者には日本語の達者な方も多いようだ。

街中には「パラオ公園」と日本語で刻まれた碑や、かつての南洋神社も残る。また前大統領のクニオ・ナカムラ氏は、その名の通り日本人の血が流れている方だ。改めて日本との深い縁を実感する思いだ。

往時のパラオ公園は、現在はショッピングセンターの一角に碑が残る。 かつての南洋神社。現在は個人の敷地内にあるが、誰でも参拝は可能だ(写真上)。市街地の裏には、日本陸軍の水陸両用の戦車が今も残る。 裏通りを歩いていたら、偶然、カヌー造りを見ることができた。船大工さんかと思いきや、そうした専門職人はいないという。漁業や農業のかたわら、必要なモノは自分たちの手で創る。これもパラオ流なのだ。
 
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