【山城】
志布志旧市街地を囲む山すべてを志布志城と言ってもいい。志布志小学校の裏山が「内城」、その西側の山は「松尾城」、そして「高城」「新城」という4つの城を総称したものが志布志城と呼ばれていた。
「内城」は南北600m・東西300m、6つの曲輪からなり、その間は空堀でさえぎる構造となっている。中世の山城は、大阪城や姫路城のように天守閣を持つ近世の平城とは異なり、戦闘時の砦という性格が強い。
志布志城は中世の争乱期に次第に規模を拡大し、支配者の居城であり続けたが、江戸時代の一国一城令により廃城となった。南九州の典型的な中世山城として2005年に「志布志城跡」が国指定史跡となった。
実は港があったから志布志城ができた、ともいえる。当時は船が最も便利な物流や交通手段であり、国内外を問わず交易で栄えた志布志はぜひとも押さえておきたい交通の要衝だった。そこで志布志をめぐって中世以来400年にもわたる攻防が繰り返され、志布志城のような立派な山城が築かれたのだった。志布志城跡からは備前・唐津など国内のものに加え、中国製の青磁や白磁、さらにタイやベトナムなど東南アジアの焼物も出土しており、志布志港の繁栄と国際性を物語っている。
現在の志布志城跡は草木に覆われ往時を偲ばせるが、わかりやすさからは、鹿児島市内の「鹿児島県歴史資料センター黎明館」にあるジオラマ(右上写真)を見ることをおすすめしたい。この模型は、戦国時代後期の1574年正月頃の状況を想定し復元したもので、居館等は想像復元である。 |