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中世からにぎわう港町、志布志

歴史に触れて、食を楽しみ、美しい風景を眺める  中世からにぎわう港町、志布志
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志布志

史跡を訪ねてゆっくり散策

【安楽山宮神社の大クス】
樹高約22メートル、根回り約25メートル、目通り幹周約18メートル、推定樹齢800〜1,200年。709年創建と伝えられる山宮神社の鳥居に覆いかぶさるように立つ国内有数の大クスは天然記念物の国指定を受けている志布志のシンボル。
天智天皇の御手植えという伝説も残る。ちなみに志布志という地名も天智天皇に関する伝承がもとになっているとか……。

古い史跡が点在しているという市内をぶらりと散策してみよう。まずは山城のふもとにある武家屋敷群へ。加賀百万石の都・金沢のような白壁の美しい街並とは対照的な、なんとも古色蒼然としたたたずまいが印象的。古びた門からは今にも武将たちが飛び出してきそうな気さえする。その一角に石敢当を見つけたとき、一瞬ここは沖縄かと思った。地元では「せっかんとう」と言うらしい。また、志布志のまちかどには角地蔵がいくつも見られる。石敢当や角地蔵はともに中国や京都の風習を取り入れたものだろうと言われており、この町が琉球や上方と海で繋がっていることを感じさせる。

江戸幕府の鎖国時代、志布志津は市内を流れる前川の河口を利用し、ここに船着場や蔵屋敷が立ち並んでいたそうだ。廻船・貿易船の積荷を取り締まっていたのが津口番所で、いまは石垣だけが残っている。津口番所跡から伸びる一本道は「千軒通り」と呼ばれたかつてのメインストリートで、現存するいくつかの商家がそれに面して並ぶ。

【山城】
鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵(ジオラマ)志布志旧市街地を囲む山すべてを志布志城と言ってもいい。志布志小学校の裏山が「内城」、その西側の山は「松尾城」、そして「高城」「新城」という4つの城を総称したものが志布志城と呼ばれていた。

「内城」は南北600m・東西300m、6つの曲輪からなり、その間は空堀でさえぎる構造となっている。中世の山城は、大阪城や姫路城のように天守閣を持つ近世の平城とは異なり、戦闘時の砦という性格が強い。

志布志城は中世の争乱期に次第に規模を拡大し、支配者の居城であり続けたが、江戸時代の一国一城令により廃城となった。南九州の典型的な中世山城として2005年に「志布志城跡」が国指定史跡となった。

実は港があったから志布志城ができた、ともいえる。当時は船が最も便利な物流や交通手段であり、国内外を問わず交易で栄えた志布志はぜひとも押さえておきたい交通の要衝だった。そこで志布志をめぐって中世以来400年にもわたる攻防が繰り返され、志布志城のような立派な山城が築かれたのだった。志布志城跡からは備前・唐津など国内のものに加え、中国製の青磁や白磁、さらにタイやベトナムなど東南アジアの焼物も出土しており、志布志港の繁栄と国際性を物語っている。

現在の志布志城跡は草木に覆われ往時を偲ばせるが、わかりやすさからは、鹿児島市内の「鹿児島県歴史資料センター黎明館」にあるジオラマ(右上写真)を見ることをおすすめしたい。この模型は、戦国時代後期の1574年正月頃の状況を想定し復元したもので、居館等は想像復元である。

復元図 現在の山城跡

最後に大慈寺を中心とした寺町を歩いてみる。明治時代に設置された石柱・里程標のある真向かいに建つ金剛寺の門前には明治33(1900)年の立札、大正時代に建てられた洋館(東郷医院)と近代の息吹を感じることができる。このほかにも、見どころはいろいろ。ゆっくり歩いて志布志の歴史をたどりながら散策できる。無理をしないでゆったりと辿ってみよう。

住職のお話

第70代住職石田恵一さん海をはずして南九州の発展は語れません。中国大陸から船で黒潮に乗っていくと志布志をはじめ鹿児島の港に着くのです。当時は文明の先進地・中国から近い志布志が日本の最先端でした。黒潮に乗っていろいろなものがやってきます。志布志はそれを受け入れてきた開放的な土地です。

昔、志布志の船は南の琉球で砂糖を積み、北は蝦夷地松前まで行き、昆布を運んできました。日本全体をひとつの船としてみれば、先端にいる志布志の人は江戸時代までは五感を研ぎ澄ませながら潮のぐあいを感じ、日本の文化や経済の舵取りをしていました。残念ながら明治以降はみな東京に向いてしまい、背中で波の音を聴いたり、潮風を受けることになり、私たちは先端たることをやめてしまいました。やはり東京ではなくアジアの方角を向いかなければ先端にいる特性が生きません。

日本の最先端・志布志にきたら、いちど大慈寺に座禅を組みにいらっしゃい。外国の船員も志布志に寄港した時は、ここへやってきて座禅を組んでいきますよ。

【大慈寺(だいじじ)】
14世紀に建てられ、のちに臨済宗十刹に加えられた由緒ある寺院。寺内には16の寺院僧坊があり、100名を超える修行僧が学ぶという広大なものだったが、明治2(1870)年の廃仏毀釈(=はいぶつきしゃく:寺院を取り壊して、神社を大事にする運動。特に薩摩藩で激しかった)によってすべて破壊され、10年後、現在地に再興される。東郷平八郎、黒田清輝、近衛文麿の記帳もあり、古今東西ジャンルを問わず多くの人が訪れている。門前にある仁王像は江戸元禄の豪商・山下弥三左衛門が航海安全を願って寄進したもので、大慈寺や志布志の海とのかかわりの深さがうかがえる。このほかにも、数多くの文化財が残されている。

椰子の実から作られた枇榔神社の面(枇榔神社は志布志湾に浮かぶ枇榔島にある)
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